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【2024/05/02 11:21 】 |
宗教とは何か

映画『シークレットサンシャイン』を見て思うのは、いかに宗教が人を救うか、だ。
息子を殺害された母親が絶望の果てに辿り着いた教会。
そこで説教を聞くうちに呆然自失としていた彼女が泣き出し。
神の無限の包容力の前に救済され、穏やかな精神状態と朗らかな表情を取り戻す。
この姿を目の当たりにすると宗教というものに胡散臭さや不健康な印象を抱いている人間でも
絶望の渦中に立たされた母親が生還できたことは事実であり、評価せざるを得ない
それほど画期的で衝撃的な光景であった。

無宗教の自分が敢えて言おう
「宗教は人を救う 素晴らしいものだ」
心からそう感じた。

精神を根底から満たされた彼女はやがて神から「許すこと」を学び。
そして息子を殺した犯人を自ら「許そう」と決意する。

ここからが問題なのだ。

彼女はさっそく刑務所へ向かい、息子を奪った仇敵である殺人者に言うのである。
「あなたの罪を許します」
しかし返答は意外だった。
相手は穏やかで朗らかな表情でこう言った
「いいえ、その罪はすでに神によって許されました」

宗教の矛盾が垣間見えた光景だ。

あるいは宗教の限界だろうか。

また違う形ではあるが『エデンの東』でも”限界”が垣間見える。
父親は聖書に”正しさ”を頼るあまり、息子を深く傷つけてしまう展開なのだが
要するに「正論を武器にするな」という言葉があるように
自らの正しさの定義を、聖書に依存しすぎると哀しい結末になるということだ。

おそらく思うのは、宗教が可能なのは「人を救うこと」までなのではないか。
このことに関しては絶大な力があると言わざるを得ない
しかしその先が問題なのだ。
救われる必要のない人間は気をつけなければならない。
いや
すでに救われた人間がその後の付き合い方を間違えると大変なことになる。
とてもあいまいなけつろんだがとにかくたいへんなことになるのだ
正しさとは何か。その定義を依存しすぎて思考停止になるのは危険なのだろう。

いやもしかしたら結論はそこではないのかもしれない。
宗教、つまり信者になることによって、
その人間は議論の場で、ある種の説得力を失う点にある。

説得力という言葉は興味深くて、専らそれは客観的なものだ。
要するに説得力の有無は聞き手側が決定するのである。あるいは無意識に。
相手に対して「信者」というレッテルを貼ることで、発言力を奪ってしまう展開はよく見かけるだろう。
例えば私のここまでの発言を、宗教に属している人間が言ったところで
説得力を感じることはできないだろう。

でもこれって聞き手(レッテルを貼る側)が能動的に議論から離脱する行為なのではないか?
むしろこっちが盲目的と考えることもできる。

要するに、宗教というものは無視できないということだ
単純に胡散臭いとか不健康という印象しか持っていないのは、むしろ盲目で不健康なのかもしれない。

映画『愛のむきだし』も宗教を掘りさげた名作だよ。

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【2010/11/12 01:04 】 | ポートントンの記事 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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